モーツァルトって何者?エロゲから学ぶ雑学

WHITE ALBUM2にてかずさが有名な音楽家について口にしていました。

今回はその中のひとり「モーツァルト」について調べてきたのでまとめます。

 

基本情報

プロフィール
名前ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
生誕1756年
場所神聖ローマ帝国領(現在のオーストリアの都市)
死没1791年

 

生い立ち

1756~1771年にかけて
父・レオポルトは息子が天才であると見出し音楽教育を与えた。
3歳のときからピアノを弾き始め、5歳のときには最初の作曲を行った。

その後父とともに何度もウィーン、パリ、ロンドンなどの旅行を行った。
これはモーツァルトの演奏を披露し、よりよい就職先を求めたりするためであったが、失敗に終わる。
しかしいろんな場所で音楽を聴き触れ、音楽の教育を外国や旅行中に受けた。

1770年にローマ教皇より黄金拍車勲章を授与される。

1778年。
ある女性と恋仲になり結婚を考えるようになるも父から「家族がお前に期待しているのは有名になり、お金を稼ぐことだ。」とパリ行きを命じられる。
交響曲第31番ニ長調「パリ」を作曲する。

1781年、25歳のモーツァルトはザルツブルク大司教の命令でウィーンに移るが、衝突し解雇されそのままウィーンの定住を決意する。
以降はフリーの音楽家として演奏会、オペラの作曲、レッスン、楽譜の出版などで生計をたてていた。
1782年に父の反対を押し切りある女性を結婚。

1783年ころ「ピアノソナタ第11番」(トルコ行進曲付き)を作曲したといわれる
1786年、5月オペラ「フィガロの結婚」をブルグ劇場で初演。
(ちなみに4月にベートーベンがモーツァルトを訪ねたとされるが不明瞭)
10月には作曲依頼を受けオペラ「ドン・ジョヴァンニ」を作曲。
このあたりから借金依頼を頻繁に行うようになる

1787年 父・レオポルト死去。
8月 ウィーンで「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」を作曲

1788年「三大交響曲」といわれる交響曲39~41番を作曲
フリーメイソン仲間のひとりからの借金が増える

晩年
ピアニストとしての人気があったが、収入は減っていき、借金返済を求める手紙が増えてくる。
本人自身の品行が悪かったり、浪費癖などで高給な仕事に恵まれなかった。

1790年 オペラ「コジ・ファン・トゥッテ(女はみなこうしたもの)」を初演。

1791年 最後のピアノ協奏曲となる第27番を作曲。
魔的を作曲・初演するなど様々な作品を作り出すも体調を崩し始める。
同年11月あたりから病状が悪化し35歳という若さでこの世を去った。

 

年譜

1756年 (0歳) 127日、ザルツブルクに生まれる。

1761年 (5歳) 最初の作曲を行う(アンダンテ ハ長調 K.1a)。

1762年 (6歳) 10月マリア・テレジア御前演奏。

1763 - 1766年 (7 - 10歳) パリ・ロンドン旅行。

1767 - 1769年 (11 - 13歳) 第2回ウィーン旅行。オペラ『みてくれの馬鹿娘』K.51上演。

1769 - 1771年 (13 - 15歳) 第1回イタリア旅行。

1770年 (14歳) 黄金拍車勲章授与。1226日 オペラ『ポントの王ミトリダーテ』K.87初演。

1771年 (15歳) 第2回イタリア旅行。セレナード『アルバのアスカニオ』K.111ミラノ上演。

1772 - 1773年 (16 - 17歳) 第3回イタリア旅行。ミラノでオペラ『ルーチョ・シッラ』K.135上演。

1773年 (17歳) 第3回ウィーン旅行。

1774 - 1775年 (18 - 19歳) 第4回ウィーン旅行。オペラ『偽の女庭師』K.196上演。

1777年 (21歳) ザルツブルクでの職を辞しミュンヘン、マンハイムへ移る。

1778年 (22歳) パリへ移る。7月、同行した母はパリで死去する。

1779年 (23歳) ザルツブルクに帰郷。ザルツブルク宮廷にオルガニストとして復帰。

1780年 (24歳) オペラ『イドメネオ』K.366準備のためにミュンヘンに赴く。マリア・テレジア崩御。

1781年 (25歳) ザルツブルク大司教コロレドと衝突、解雇。ウィーン定住を決意。

1782年 (26歳)

7月、オペラ『後宮からの誘拐』K.384をウィーンで初演。

83日、コンスタンツェ・ヴェーバーと結婚。

1783年 (27歳)

ザルツブルクに帰郷。大ミサ曲ハ短調 K.427を上演。

6月、長男誕生するもザルツブルク旅行中に死亡。

1784年 (28歳)

2子カール・トーマス・モーツァルト誕生。

フリーメイソンリーの慈善ロッジ(ウィーン)に入会(書類上では125日)。

1785年 (29歳) 弦楽四重奏曲集をハイドンに献呈(「ハイドン・セット」)。

1786年 (30歳) オペラ『フィガロの結婚』K.492初演。

1787年 (31歳) 父・レオポルト死去。オペラ『ドン・ジョヴァンニ』K.527初演。

1788年 (32歳) いわゆる「3大交響曲」を作曲。

1789年 (33歳) ベルリン旅行。

1790年 (34歳) オペラ『コジ・ファン・トゥッテ』K.588初演。

1791年 (35歳) オペラ『皇帝ティートの慈悲』K.621、オペラ『魔笛』K.620初演。125日ウィーンにて死去。

 

人柄

優勝な音楽家であるが、猥談を好み、妻のコンスタンツェに卑猥な内容の手紙を何通か送っている。

またモーツァルトにはベーズレという従妹がいたそうで、彼女に宛てられた手紙の数々は「ベーズレ書簡」として広く知られるようになる。

内容は下半身の話題や排泄物嗜好(スカトロジー)が多かったよう。

ちなみに手紙の和訳がネットに載っていますが、ほとんど「うんち」のことしか書いてなくて笑えますw

 

有名曲

きらきら星変奏曲 "Ah, vous dirai-je, Maman" K.26

 

トルコ行進曲 Turkish March
Piano Sonata No.11 In A, K331/K300I
ピアノ・ソナタ 第11番 イ長調 K.331/K.300I

 

 

Overture’ from The Marriage Of Figaro, K492

歌劇《フィガロの結婚》序曲 K.492

 

 

Symphony No.41 In C, K551 – Jupiter

交響曲 第41番 ハ長調 K.551《ジュピター》

 

 

Requiem Mass In D minor, K626

レクイエム ニ短調 K.626

 

 

Die Zauberflöte (The Magic Flute), K620

歌劇《魔笛》K.620

 

オペラで日本語吹き替え版2時間ぐらいの動画がYouTubeにアップロードされてます。

 

 

 

 


以上で簡単ですがモーツァルトについてまとめてみました。

品行が悪かったり、浪費癖があったり、卑猥な言葉を使用することなどネガティブでみられるポイントが多い反面、音楽家としては「天才」として認知されていたようです。

一部ではサヴァン症候群だったのではないかという見解もあるようです。

サヴァン症候群=精神障害や知能障害を持ちながら、ごく特定の分野に突出した能力を発揮する人や症状。

 

ラブレターを和訳した手紙の内容には笑えましたw

一応みれるリンクを貼っておきます↓

天才作曲家モーツァルトが書いたラブレターが「想像以上に酷すぎる」とツイッターで話題に! | Pouch[ポーチ] (youpouch.com)

 

有名な曲を上記に上げましたがまだまだあるので調べてみるとたくさん出てきます。

YouTubeにもたくさん動画上がっているので聞いてみるのもいいかもしれませんね。

また調べたことについてまとめていこうと思います。

ではまた。

 

 

 

 

 

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